ひつじ図書協会

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記録と記憶とオンライン授業 早瀬耕「忘却のワクチン」

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  以前、大学の情報科学の授業で提出したレポートのリメイク記事です。いきなりSF小説について語り始めるレポートを教授が面白がってくれたのか、優をもらえました。それはともかくとして、デジタル化社会における「記憶」と「記録」の関わりについて、見ていきましょう。

 

 

関連文献: 

www.bookreview-of-sheep.com

 

消せない記録「デジタルタトゥー」

 インターネット上に拡散した情報は消すことは出来ないのは、今日ではほぼ常識とされている。リベンジポルノや、Twitterでの炎上事件が後を絶たないのも、ひとたびアップロードされたデータがたとえ投稿者が削除要請を出しても完全には消えずに残ることが原因の一つであるとされている。

 

 このように、ウェブ上に一度提供した情報は消去することが難しく、半永久的にデジタルデータとして残り続けることを入れ墨に例えて表現したのがデジタルタトゥーという造語だ。

 

 前置きが長くなったが、今回は現実では不可能とされるデジタルタトゥーの消去を扱った「忘却のワクチン」を紐解いていこう。

  

 

「忘却のワクチン」あらすじ

 主人公の元恋人「高橋香織」は、リベンジポルノの被害に遭い大学に来なくなってしまった。彼女を救うため、主人公は工学部所属の佐伯衣理奈に拡散された画像を消すことが出来ないか相談する。衣理奈は指導教官の南雲の手を借りて消去方法を見出すが、その方法には主人公と高橋香織との思い出までも消してしまうという副作用があった。南雲と衣理奈が処方した「忘却のワクチン」とは一体…。

 

 

 

 

!ここからネタバレ!

 

 

 

 

「忘却のワクチン」とは?

 作中でも語られるが、「忘却のワクチン」の作用機序を理解するにはまず、ウイルス対策ソフトの仕組みを見ていかなければならない。ウイルス対策ソフトは「ウイルスの見本市」のような「パターンファイル(ウイルス定義ファイル)」と呼ばれる代物を持つ。ウイルス定義ファイルに格納されたウイルスの類型と当てはまるデータがあれば、それをウイルスと判断して排除するわけだ。

 

 「忘却のワクチン」を発動させるにはまず、削除したいデータを組み込んだ無害なウイルスを拡散させる。削除したいデータをウイルス対策ソフトに「ウイルス」として認識させて、ウイルス定義ファイルに取り込ませるためだ。定期的なアップデートによって、削除したいデータを含むウイルス定義ファイルは拡散される。これが「忘却のワクチン」だ。

 

 ウイルス対策ソフトは定義ファイルに従い、消したいデータをウイルスとみなして排除してくれる。*1。ウイルス定義ファイルを利用したウイルス対策ソフトの働きを抗原抗体反応に例えるなら、「忘却のワクチン」は正鵠を射たネーミングだ。

 

 この方法の実現可能性の検討は情報科学の専門家に任せるとして、本記事では「忘却のワクチン」の拡散で生じるという「副作用」について考えていこう。

 

 

副作用

 ウイルスを作成する際、南雲は高橋香織の顔認証データを埋め込んだ。これは高橋香織の顔が写るリベンジポルノに使われた画像を、ウイルス対策ソフトにウイルスとして認識させるためだ。しかし、これではリベンジポルノに使われた画像だけでなく高橋香織の顔を含む画像全てがウイルスと認識され、排除されてしまう。そして、デジタル端末から高橋香織の「記録」が消えると同時に、高橋香織にまつわる「記憶」も消える。これが南雲が示した「副作用」だ。

 

 スマホなどの端末の中の記録と自分の記憶が食い違ったら、記録の方を信用する。一見ありえないようにみえるが、近いことは我々も日常的に行っている。一年前に何をしていたのかを思い出すためにインスタグラムの投稿を見たとする。「あれ、私こんなところに旅行に行っていたんだ、忘れてた」と思う。だが、本当に忘れていただけなのか?実は本当に旅行には行っていなくて、インスタグラムに投稿された写真は捏造だったとしたら?

 

 

記憶の外部化

 …流石にこれは行き過ぎたケースだが、実際我々が端末上の記録に頼り切っているのは確かだ。友達の電話番号だって覚えてなかったり(そもそもLINE通話だし)、バイトのシフトもスマホのスケジュール帳頼み。「記録は絶対」という記録のデータ完全性への過信、そして曖昧な人間の記憶への不信から、どんどん記録偏重思考へと傾いていく。実際には頭の外にある分記録の方が簡単に操作できてしまうこともあるのに。作者はこうした状況を「脳という記録装置を外部化して、自分の記憶を軽視している」と評す。

 

 もちろん大規模な記録の改変の結果、実際に作中で言われるような「副作用」が起こるかは分からない。しかし「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもので、コロナ禍の下ではこの設定は必ずしもナンセンスとは言い切れなくなりつつある。

 

 

オンライン授業がもたらす記録偏重社会

 2020年度にはコロナ禍の影響で多くの大学が講義をオンライン化した。大学生の間では授業への出席を毎回課されるレポート、あるいはインターネット上の学務システムの出席確認機能でとるのが当たり前になった。講義内容は動画あるいは音声の形で学務システム上にアップロードされ、学生たちのパソコンへと配信される。学生が好きな時間に講義動画を閲覧できるオンデマンド形式をとった大学も多かったようだ。

 

 動画という形で「完全な」講義記録が残るのだから、例えば定期試験の後で学生が「こんな内容は授業で扱っていなかった」とクレームを入れても記録を参照すれば白黒はっきりつけられるわけだ。あるいは教授がうっかりしていれば、ワンタイムパスワードで出席確認を行った後不届きな学生がすぐに講義の配信の視聴をやめても、記録上は「出席」という扱いになる。このような状態こそまさに記録偏重といえるのではないだろうか?

 

 もっともこうした変化はコロナ禍以前から見られたもので、昨日今日に始まったことではない。しかし、少なくともコロナ禍が記録偏重社会への変化を着々と加速させつつあるとは言えるだろう。「忘却のワクチン」の副作用が猛威を振るうようになる日もそう遠くはないのかもしれない。

 

 

 

 

*1:早瀬耕. プラネタリウムの外側. ハヤカワ文庫. 2018. 220-221