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「天冥の標Ⅱ 救世群」 感染症ディストピア小説

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「天冥の標」のシリーズ二作目。2010年刊行。西暦2010年代に地球で発生した感染症「冥王斑」を巡る物語。

ストーリー

 2015年、パラオの孤島にて致死率が極めて高い未知の感染症「冥王斑」が発生した。現地に急行した感染症医の矢来華南子児玉圭吾が目にしたのは、死体が累々と転がるこの世の地獄だった。そんな中、家族旅行の途中だった檜沢千茅(あいざわちかや)は児玉たちの懸命な治療でただ一人生き残る。

 

 パラオでのアウトブレイクは収束したが、冥王斑ウイルスは世界に広まってしまった。各地でアウトブレイクが頻発する中、生き残った千茅には謂れのない中傷が集中する。かつての友達からも見放され一度は絶望に沈む千茅だったが、風変わりな友人紀ノ川青葉の励ましを受け立ち直る。

 

 次第に増えていく生還者たちと手を取り合いながら「合宿所」と呼ばれる隔離施設で生きていく道を見出していく千茅。しかし、ついに東京で大規模なアウトブレイクが発生し、患者たちの運命は急転していく。

 

 

用語解説

冥王斑

 シリーズ全体のキーワードとなるウイルス性感染症。95%という高い致死率を持ち、感染すると全身で循環不全を起こし、発熱、リンパ腺肥大などの症状を経て数日で死亡する。潜伏期間は一週間。

 

 患者の体液や皮膚からの落屑を吸い込むことで感染する。感染者の顔には、広げた手を目元にあてたような斑紋が現れ、性的誘因力のある芳香を発するようになる。他にも、涙の分泌が促進されるという描写もある。

 

 最大の特徴が、運よく回復した場合でもウイルスが感染能力を保ったまま体内に潜伏し、感染リスクが一生消えないこと。ウイルスは垂直感染もするため、回復者たちは子々孫々に至るまで厳重に隔離される運命を負う。

 

 ちなみに95%という異様に高い致死率は、ウイルス進化によって巻を追うごとに下がっていき、Ⅲ、Ⅳの時点ではおよそ30%、Ⅵの時点では20%になっている。それでも危険な感染症であることは変わりないが。

 

世界冥王斑患者群連絡会議

 檜沢千茅が創設した、冥王斑の回復者のための権利団体。「プルート・スポット・プラクティス・リエゾン」。冥王斑の患者群、通称「救世群プラクティス*1の待遇改善が主な目的。

 

 冥王斑ワクチン(効果は限定的だが)の原料となる、自らの血液を販売することで資金を得ている。

 

クトコト

 ニューギニアで発見された、冥王斑の自然宿主。外見は6本足のサル。足の数から分かるように、地球上の生物の進化の系統樹から外れた体を持っている。冥王斑研究を支援していたフェオドール・フィルマンはクトコトが地球外の生物ではないかという仮説を立てるが…?

 

「救世群」にこめられたメッセージ

 「救世群」は、「病気が起こす差別が恒常化した世界」を描くディストピア小説だ。病気への嫌悪、隔離される感染者の孤独、感染者への差別など、病気が巻き起こす人間の負の感情が、檜沢千茅の絶望を通じてひしひしと伝わってくる。

 

 個人的な感想になるが、一番きつかったのが一度は希望を取り戻した千茅が合宿所の襲撃事件の後に再び絶望に沈むシーンだった。

 

 青葉という友人を得て、回復患者同士で手を取り合って生きていこうとした千茅でだったが、社会は回復患者をより厳しく隔離することを望んだ。いわば、「あげておとされた」形になった千茅を見て、作者はなんと残酷なことをするのだろう、と最初は思った。

 

 しかしそんな陰惨なディストピアの中に、小川一水は一縷の希望を加える。それこそが紀ノ川青葉の存在だ。

 

 感染者を絶対的な他人とみて排斥するのではなく、「運が悪かったら自分も『そっち側』にいた」ことを理解する人間。紀ノ川青葉は「救世群」の中で感染者と非感染者の間の壁を越えられた数少ない人間であり、彼女の存在もまたシリーズの中で連綿と受け継がれていくことになる。

 

柊武雄という人間

 一方で、紀ノ川青葉とは違う意味で存在感を放っているのが、児玉と矢来の上司で社会防疫部長の柊武雄だ。

 

 「救世群」では柊武雄をはじめとする防疫担当者たちが、アウトブレイクを食い止めるために厳しい隔離措置を実施していく。一見すると彼らは感染者たちを閉じ込めて抑圧する血も涙もない人々に見える。しかし、

強力な伝染病に対するときには権力の発動を欠くことが出来ない。しかし現代の人間社会では、民主政治を支える大衆の意思や、個人の人権への配慮もまた、無視することはできない。伝染病対策は、常にその両者のせめぎあいのもとで実施される。

というように、感染症に対処するためにはこうした防疫は必要であるのも事実である。

 

 こうした、「防疫と、患者の人権のせめぎあい」の中で、児玉や青葉たちは患者の立場に寄りそって行動する。一方、柊は完全に防疫の立場から動く。

 

 本作の終盤、山中に隠れ住んでいた千茅を探し出し、隔離施設に連れ戻しにきた柊は、千茅にこんな言葉をかける。

「あなたほど強く高貴で、人間的な患者はいなかった。心から敬意を表します。……それとともに、あなたほどの人に、こんなことをしなければならないのを、深く遺憾に思います。私をお恨みなさい。どうか、人間を恨むことのないように。

 患者の人権を犠牲にしながら、柊は徹底的な防疫体制をしいて冥王斑を封じ込めることにある程度成功した。その時の彼の胸中は、一体どんなものだったのだろうか。

 

コロナ禍と「救世群」

 当然とも言うべきか、コロナ禍の中で「救世群」はCOVID-19と関連付けて語られることが多かった。日本での感染が拡大しつつあった2020年春には、「防疫は差別ではない」と大きく書かれた帯で書店に並んでいたものだ。

 

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 確かに冥王斑が発症直後に嗅覚障害を伴うことや、首都圏での緊急事態宣言発令などの少々不気味な「偶然の一致」はある。ただ、致死率が95%には遠く及ばないCOVID-19 が、冥王斑に勝るとも劣らない影響を社会に与えた辺り、感染症の脅威は致死率だけでは測れないことをよく示していて感慨深い。

 

 それにしてもこの「防疫は差別ではない」というキャッチコピー、このままだと「防疫って言えれば、差別じゃないんだ!」という、感染者への差別を助長するようなスローガンに聞こえる。

 

 「防疫と差別は違う」にすれば良かったんじゃないかな…今更だけど。

 

 

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*1:practiceという単語には、「患者群」という用例もある